なぜ生きづらいのか改めて深く考えてみた。
私は他人との関係、決めつけられることに対して、そしてそう感じる自分自身だと思っていた。もっと突き詰めるとそれは世間のステレオタイプに縛られて生きていることだった。
世の中の「こうあるべき」という価値観。世の中で生きるからには誰もがそれを基準に批評される。それだけなら別になんてことないけど、問題なのはそれを基準に他人を非難・否定・嘲笑する人たちの存在。いつしか私自身も"そういう人たち"の基準で自分を責めるようになった。
"そういう人たち"は良くも悪くも自分たち自身はステレオタイプに則って、世間の基準の最低限をクリアして生きてると思ってるから、クリアできてないと判断したものを日々下方比較して自己肯定感を得ている。"そういう人たち"はそれを習慣化して今更自分のその行いや相手に対して酷いことをしてるとも思ってないから生きやすいし、自分に欠点があっても深く考えずに生きていける。ある意味では自分の欠点を深く直視することをしない(できない)からこそ、心が弱くならないとも言える。
"そういう人たち"のそういうことができないタイプの人間は生きづらくなるのだ。
"そういう人たち"の中には、よくわからないもの、自分と異なるものを非難する時に「生きづらいんだねw」と決めつける人もいるけど、本当に生きづらいというのは"そういう人たち"にもわかるように端的に一言で言えば、「あなたかたち("そういう人たち")が考えないようにしていることまで考えてしまう」からだよ。
どういうことを考えしまうかというと
"そういう人たち"は自分自身の欠点や相手への嫌な言葉を考えないようにして引きずらないでいるだろうけど、生きづらい人間は自分自身の欠点について深く考え込んでしまうときがあるし、そして容易にはそれを改善できないことを知って悩み落ち込むし、相手に言ってしまった嫌な言葉についても思い出しては、嫌な言葉とわかっていながらも"そういう人たち"の言った言葉やされたことで"そういう人たち"に向けてまた嫌な言葉を言ってしまうんじゃないかという不安、それ以外にもいろいろ考える。
だから生きづらい。
"そういう人たち"は簡単に「生きづらいw」と軽く言うけれど、本当に生きづらいとはどういうことなのかを知らずに言ってる人を見かけると、「この人なんでも軽く考えられる人なんだな」と思う。
つまり生きやすい人間というのは、いつも深く考えずに思ったことを嫌いな相手に(陰口でも面と向かってなくても)聞かせようとして吐き出せる人なのだ。
そして、魂のレベルが高い人は、『生きづらさも理解してあげられる/否定や非難をせず尊重してあげられる』人。
余談
決めつけられるほうが悪いとか、問題があると考える人は、どうせ他人にはわからぬことなのだから安易に決めつけるべきではない、決めつける必要はない、として答えを出さないというふうには考えられないのかな。とも思う。
やっぱり、何事も決めつけないと落ち着かないのかな。この世のすべてが単純で、自分が決めつけられるわけではないだろうに。